2013年11月6日水曜日

加藤諦三を切り取る人


こんにちは~
今回は切り取った写真ではなく、本を切り取ってみました。

これは遥か昔、僕が教員だった頃に読んだものです。
加藤諦三さんの「『やさしさ』と『冷たさ』の心理」という本です。
関心のある方はアマゾンでぜひ購入して読んでくださいね。500円くらいです(*^_^*)

前回のサケの遡上についてのブログを書いた時に、子育てとか親の責任とか、自分自身の欠点とか・・・いろいろ考えてしまいました。

ま、リチャード・ドーキンスのように「生物とは遺伝子によって利用される『乗り物』にしか過ぎない」というクール・アンド・ドライな考え方もあるでしょうが、僕のような凡人はどうしてもサケの姿に自分を重ねてしまうんですよね。で、あれこれ考える・・・

本を切り取ったということは「抜粋した」ということです。

前半は子育てしている方々の参考になるでしょう。
後半はいわゆる「甘え下手な人」と言われる方の自己認識の一助になると思います。
僕もそういう人を何人か知っています。いつも我慢ばかりして損をしています。人がよくて面倒見が良くて人のことばかり考えていて・・・

みなさんの中にも当てはまる人がいるかもしれません。




(以下引用)

「充分に愛された者は、周囲を信頼し自分を信頼することができる。
 充分に愛された者、甘えの欲求を満たされた者は、自分を信頼し独り立ちできる。周囲の自分に対する反応に、自分の感情が左右される事は無い。

逆に、小さい頃親から感情を押し付けられた子供は、自分の内面の感情に怯える。
親から感情を押し付けられた者は、小さい頃甘えの欲求を完全に抑えなければならなかった。
むしろ、小さい子供の方が、親の甘えの欲求を満たすための手段となっていたのである。

このような子供は、あまりにも周囲からの要求が多すぎて、自分の内面の感情に怯えるようになる。実際の自分は、周囲からの要求を叶えられるような存在では無い。しかし、周囲からの要求に応えなければ拒否される。拒否されれば小さい子供は生きてはいけない。自分が「親にこうあってほしい」と望むのではなく、 「親がこうあって欲しい」と自分に望むように、自分を変えなければならないのである。

甘えの欲求を満たすどころではない。
すると、自分の中にある甘えの欲求は、親の要求を叶える障害になるから、拒否しなければならない。自分の中にある甘えの欲求を悪いものとみなさなければならない。
実際の自分は許されない存在となり、実際の自分を罪悪視するようになる。自分で自分に怯えるようになる。自分を信頼できる人間とは大違いである。

いわれなき罪悪感というのは、自己防衛なのである。誰に対する防衛か。それは親に対する防衛である。

もう自分を防衛する必要などどこにもない。自分が親の甘えの欲求を満たす存在ではないということで、自分にやましさを感じる必要などどこにもないのだ。そして、自分の中に甘えの欲求に気づくことである。

不機嫌な人、いわれなき罪悪感に苦しんでいる人、自分におびえている人、何か自分の存在が許されないと感じている人、それらの人は、自分が何を望んでいるか分からなくなっている。
自分が心の底で望んでるものは何なのか、自分が必要としているものは何なのか、それが本人にわからないということが問題なのである。

それらの人が心の底で望んでいるもの、それは「やさしさ」なのである。ところが、それらの人は、自分を守る事ばかりに気を奪われて、自分の望むものに気付こうとしない。

甘えを満たされていないあなたは、実際には自己中心的でわがままなのである。あなたはそれを認める必要がある。自己中心的でわがままな自分をどんなに抑え、それからどんなに目を背けても、不快感から逃れることができない。

それらを抑えてみても、それらはどこかで形を変えて出てくる。
例えば、他人の不幸を心のどこかで喜ぶ、自分の憎しみに正義の仮面をつけさせて他人を苦しめる、そんな歪んだ現れ方をする。

自分の望んでいるものに、勇気を持って気づくことである。もっと正確に言えば、自分が直接に望んでいることに気づくことである。心配性な人は、自分が直接に望んでいることに気づかない。自分が必要としているものがわからなくなっているのである。」








僕たちの子は親から何を学び


(親子の木)




何を哲学し


 (哲学の木)



どんな道を歩むのでしょうね





ではまた~

チャオ!

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